群像5月号新連作「会いに行ってーー静流藤娘紀行」開始


4月5日発売の「群像」2019年5月号に笙野頼子さんの連作小説「会いに行ってーー静流藤娘紀行」が掲載されています。24ページ。
・第2回:群像7月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第2回掲載
・第3回:群像9月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第3回掲載
・第4回:群像11月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第4回掲載
・第5回:群像12月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」完結

私小説を徹底し新境地を開いた小説家・藤枝静男について、笙野さんが「自説、私説の、私師匠説」を書かれています。
藤枝氏といえば、群像新人賞選考でデビュー作「極楽」を激推しされた方として(ファンに)お馴染み。
その師匠の経歴・人となりや交友関係を前半で描き、後半の師匠へのお手紙では作風について熱く語ります。
娘さんと共に昨年春、浜松市文芸館で近代文学の展示をご覧になったお話も。
兎にも角にも、師匠に対する尊敬と畏怖に心打たれます。心洗われます。

馬場秀和ブログに感想が掲載されています。
『会いに行って――静流藤娘紀行』(笙野頼子)(『群像』2019年5月号掲載)
以前から藤枝静男を書きたいと仰ってました。最近のエッセイにも書くと触れられてましたよね。

東條慎生さんはTwitterにも感想が。
藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試み、か。
抑圧の構造を相対化し自由になるのは笙野さんの手法ですし、構造から自由になろうとする点は二人に共通していますね。


第1章「これから私の師匠説を書く」では、まずどんな小説なのか、最初に結論が書いてあります。
これは引用に基づいた小説である。私はまず畏怖とともにある引用をし、それを小説化する。
引用の内容は、瀧井孝作氏に私小説を書いてみよと言われたが、ありのままに嘘なく書くべき「自分」などないから「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う」という宣言。
笙野さんも「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う」、もとい「自説、私説の、私師匠説」を書くという。
その師匠・藤枝静男とはどんな方なのでしょう。
そして師匠は、勝手にいうけれど、志賀直哉門下においてもっとも私小説を極めた、この形式の領土を広げた、真に開拓した、それによって中央集権的な構造を抜け、自分の愛する故郷を王国にし、自分の魂であるわが庭の池をひとつの宇宙にまでした、傑出である、その作品の最頂点というべきものは、『田紳有楽』である。
その『田紳有楽』の紹介はこちらを参照。
ところがこれけして童話や普通の幻想小説ではないのである。徹底した厳密さの「私小説」と言える。但し御本人はでたらめをやるつもりであったよう。だが、それは誠実な激烈な「でたらめ」でしかなかった。
というまさにこの、「しかなかった」ぶりにおいてこそ師匠は、名匠にして天才という話なのだ。これは本当にあった事以上の心的真実を描いた。
どんなことも恐れずに師匠は、私小説に書いてきた。「自画像」を書くのなら「醜く」書くという決意のまま、要するに恐るべき私小説の書き手として進んだのだ。おそらくはその必然としていつしか、この「私小説」を書くようになった。
誠実すぎて「私小説」のタブーを破ってしまい、界隈から嫌われてしまったらしい。なんか何処かで聞いた話のような。そこも笙野さんと似てませんか。
タブーを破り、水を擬人化して描いたりしても、
他者になり他者になってもなるのはただ自分。そこがいい。火葬されて生まれる茶碗に生まれ変わっても「私小説」の師匠。
フィクションと誤魔化さないのですね。素晴らしい。
師匠は地元・静岡県藤枝市浜松市にて、小川国夫や曽宮一念らの芸術家とも交流深かったそう。
この曽宮画伯の絵は師匠の特質を理解するために非常に有効である。
LOHACO『曽宮一念、藤枝静男宛書簡』の表紙や曽宮一念 油彩画展のパンフレットを拝見するに、画風はセザンヌの洗礼を受けた肉感的な画風っぽいですね。
絵や骨董を描写する師匠の文章に、高等遊民的なものは何もないと思う。生の感触を実用的に求め、進んでいく。そのような美の本質を知らなくてはならない必然性はおそらく風土の中にあり、この風土が人に「真実」を見せた。
藤枝の風土。浜松は一度訪れたましたが、空と山の景色が関西とは全然違うという印象。
餃子とお茶が美味しく暖かくて住みやすそうな所ですよね。(違
具象画にも抽象画にも行かない師匠の求める芸術、そして生きにくさに由来する表現とは。
自分で「自分の生活」を生活する自分、そんなものを師匠は土台、自分だと思っていない。
師匠は人と自分の使うひとつの言葉が同じものであるとは思っていない。それがそのまま通ずると信じてもいない。理由はおそらく自分に厳しい事と全てに不器用な事、そもそもすさまじい方向音痴であった事もある。彼は道とか線路というものを理解しなかった。性というものにもずっと違和感を抱き続けた。
彼はおそらく、世間の人々が自然に体得しているものをそのまま利用できない一生を終わった。
作中においても、無頼を課題にするだけで無頼ではない。ただ性欲の転化したすさまじい怒りを持つ。要するにある心境に達するとかそういうストーリーのある構造を持ちえない体なのだ。そこにあるのはただ変わりない自己嫌悪だけである。
ある時からそれは観念小説の様相を帯び始めた。然し同時に彼は具体物によってしかその観念を理解しない人間であった。
物語で片付けられない。だから、私小説を書くべき自分などないと書かれるのですね、師匠は。
そういう事実に対する誠実さって理系っぽい。
ついでに、師匠の小説を何から読めばいいかアドバイスも。
何から読めばいいですかと言ってくる人へ。まず短編をひとつ読めばいいのである。そして一目見てその文章が気に入った人は何を読んでもいい。『田紳有楽』を読んではまればいい。ただ「愛国者たち」とか、「凶徒津田三蔵」、これは出来るだけ後に残しておいた方がいい。また、きついけど凄い、と思いながら頑張って短編を読んでいる途中の人、随筆もちょっと見てみるといいよ。あまりにも率直で感じいいから。
随筆も面白そうですね。「愛国者たち」と「凶徒津田三蔵」は後。メモメモ。

第2章「師匠にお手紙を書く」では、師匠に思いを語ってゆきます。
しかし、ある一点にかけて、私はこうして師匠について書いてしまおうと思っています。その一点とはあるものごと、理性、或いは今までの文学が自明とするものをも、師匠があえて理解しない、絶対に理解しないという、その頑固さにおいてなのです。それは頑固さというよりむしろ、天性、本能ですね。
とはいえ、私の場合、ただ単に本当に理解出来ないのです。
師匠は文章の習練によって、「その判らなさ」を貫こうとした。それを私は小川国夫さんとの対談で教えられました。
その対談は「河南文藝」文学篇2003年夏号掲載のですね(『徹底抗戦!文士の森』収録)。
その対談でオフレコの話があったそう。
立川文庫の修行すれば出来ない事もできるようになる的な話を師匠は信じ、百錬の文体文章を書けば何か飛び越える力ができると言っていたとか。小川さんはそれは幻想だと思っていると。
 ところが私はそうは思っていなかったのです。技術で構造をこえていくことを自分で信じていました。文法は男の言葉であってこの構造を抜けたものは、つまり女の言葉は狂気に過ぎないという言い方がある。しかしガタリは単語を並べて言葉を通じさせると言っているし、それは私自身がずっとやって来たことです。
理解してはいけないものを理解することでこの世は合理的に回っている。それに抵抗するように師匠は生きていました。教育の刷り込みを受けて、医師になった上で。百錬の文体?ありますとも師匠ならば。
師匠の私小説がリアリズムを越えている事、それこそがまさに文というもののリアリズム習練の結果だと私は思っています。
本当のリアルとはなんであるのかを、師匠は文によって叩き出した。リアルを追求せずにはいられない心、というよりもそのリアルとは常に不快がる肉体でした。肉体から逃げない、しかもそれを理解しない、理解しない、が、付き合う。
そこに普遍性が生まれ、読み手にリアルが伝わるのかもしれません。
ただそれでもその判らないという一点に懸けて私には書ける、他の人には書けない師匠の読解が出来る、そう思ってしまった。
それで「私の師匠説を書く」のですね。
その後、昨年の春に浜松市文芸館で師匠の娘さんと会われたお話に。展示室で、師匠が人に贈っていた判子が飾られていたそう。
判子のお礼状として、丸谷才一先生の手紙もありました。私はそれを意外に感じました。なぜなら丸谷先生は私小説が嫌いだと聞いていたからです。しかも師匠は誰かからあなただけは私小説ではないと言われても、ずっと私小説であろうとしたから。それは師匠の魂が池であるという事の証拠かもしれない。水を換えても、何を変えてもそれはひとつの池、生き物が住む、茶碗が沈んでいる。
その池は文芸館の庭に移転されて残っているそうですが、創作のルーツはひとつの池。そこには何が沈んでいるのか。
次回が楽しみですね。それまでに藤枝小説読んどこうっと。

参考リンク:
藤枝静男 年譜・著作年表:青木鐵夫さんのサイト、紹介されてました。
浜松市文芸館
孤高の作家医師 藤枝静男/藤枝市文学館
富士宮市ゆかりの作家 曽宮 一念 | 静岡県富士宮市

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