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コモドオオトカゲは毒をもつ

今日はすごいニュースを二つも知った。 ブログ・ 服従するが果たさない 経由。 つらい時は君を想い出すよ。君がつらい時は、ぼくを想い出しておくれ。 忌野清志郎さんが闘病時に小児がん幼児にエールを送ったとか。 もうひとつはブログ・ かめ? 経由。 コモドオオトカゲのなぞ解明 獲物に毒を注入 コモドオオトカゲは別名コモドドラゴンと呼ばれている、 「 人の道 御三神 」後篇にでてきた可愛いコモドドラゴン三姉妹のことですよ。 コモドオオトカゲは獲物を攻撃する際、かみついた相手の傷に毒を注入していることが、オーストラリア・メルボルン大のチームの研究で明らかになった。 がぶっと獲物に噛みつき、弱って大人しくなった頃合いに毒を注入するらしい。 チームによると、この毒には血の凝固を妨げる作用がある。獲物は多量の出血を起こし、血圧が降下して死ぬという。 大量出血で失血死!これは人間もイチコロだなと思ったら、実際に襲われて亡くなった方もいるとか。 恐竜と間違われただけあって強い。最強のトカゲだ。

清水良典『文学の未来』(2)

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清水良典『 文学の未来 』は「純文章宣言」から始まる。 それは小説・エッセイなどジャンルに関係なく、面白い文章かどうかで良い作品か決めようという主張(だと思う)。 たしかに最近ジャンル分けできない小説が多い。 私自身も文章が退屈だと飽きるタイプなので、読んでいて納得。 第一章では、作文に着目したコラムをまとめている。 作文から近代小説成立期から言文一致の歴史と功罪や日本国憲法の抑圧性を批判する展開は面白い。 そして世代間の文章に対するスタンスの指摘も。 第二章は近代小説の作家毎の批評。 谷崎潤一郎・内田百間・林芙美子・幸田文・井伏鱒二・吉行淳之介・島田敏雄。 最後の島田敏雄『死の棘』の解説は目から鱗。 作者の妻は創作のパートナーだったという視点から、『死の棘』島尾ミホは狂気の人ではなく神の相似形<聖ミホ>として書いているという。 これは…斬新じゃない?いますぐ読み返したくなった(けど本がみつからない…)。 第三章は現代小説の作家批評。 高橋源一郎・筒井康隆・川上弘美・赤坂真理・小川洋子・柳美里・笙野頼子の七人。 個人的読後感から段々と深い洞察に入っていくスタイルで読んでいなくても楽しめる。 柳美里はモデルの人権侵害として一部削除されて出版された『石を泳ぐ魚』を取りあげている。オリジナルと改訂版と比較し、オリジナルの重要なメタファーが禁じられ作品性が反対になっていることを指摘する。 その次が笙野頼子とくると、清水良典のスタンスが伝わってくるような気がするのだ。

清水良典『文学の未来』(1)

清水良典『 文学の未来 』を読みました。 ラストに「闘う文/夢みる文―笙野頼子」が収録されているからです。 例の「論座」2008年5月号笙野小特集の寄稿文が大幅加筆で16ページにボリュームアップ。 2008年時点で笙野頼子を総まとめした批評文になっております。 わかりやすい解説でにわかファン(私)には大変ありがたい。 そこには、現在に至るまでの笙野頼子の戦いの原理が刻まれている。「私」を束縛し、「ない」を規定しようとする外部の力と徹底的に争うこと、そして同時に外部の原理のさらに「外」に立ちうる「私」を想像しようと試みること、――その外と内に向いたベクトルが同時に働くような闘争として、彼女の文章は運動しつづけているのだ。p302 そうそう、笙野作品は束縛の外にたつ「私」を創っている。 笙野頼子の魅力の中で、その創造力が一番好きだ。元気になれる。  時代が最も軽んずるもの、無価値と断ずるもの、「ない」ことにされたものたちの封印された声に、笙野は「習合」する。その対象や敵が今後どのように移り変わろうとも、笙野頼子の闘いは永続する。p311 野良猫も天狗もカッパも原始八幡もナイことにされたもの達としてモチーフになっている、てことですね。 国家とか権力と闘っているとばかり考えていたが、「無価値と断ずる」もっと大きな枠の力を射程に入れているのかもしれない。奥が深いなー。