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笙野頼子三冠集「なにもしてない」著書コメントが

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twitterアカウント河出文庫さんが「改元が近づいてきたので笙野頼子「なにもしてない」を再読」されたら、笙野頼子さんより「なにもしてない」へのコメントが寄せられたそうです。 天皇とはだれか?年号とは何か?令和の始まる前にするべき復習。これはひとりの「自称作家」が書き残した新しい時代の始まりと称する嘘。市井をおおう虚構の「全記録」である。過激派を恐れ撤去されたゴミ箱。一瞬垣間見た皇室とそのレポーター。すりこまれた神道の夢の中を漂いつつ、「時代のリセット」にかぶれながら、ひたすら湿疹をこじらせる主人公の地味さと無能さと無名さを描いた。渡部直巳が酷評した無名作家時代の私はこれを書いていた。身辺雑記としては「無難すぎる」けれどこれは、年号小説である。芸能レポーターたちは忘れられた。小説は残った。 さらに承前、笙野頼子さんより「なにもしてない」へのコメントが届きました!→“天皇とはだれか?年号とは何か?令和の始まる前にするべき復習。これはひとりの「自称作家」が書き残した新しい時代の始まりと称する嘘。市井をおおう虚構の「全記録」である。”(続) — 河出文庫 (@kawade_bunko) 2019年4月19日 石川県金沢市の 石川四高記念文化交流館 にて企画展「平成をうつす」の展示が始まっています。こちらで笙野頼子「幽界森娘異聞」の著者自筆校正入りゲラが展示されているそうです。 期間は4月20日(土)~6月23日(日)です。金沢か…ちょっと遠いな…。 企画展「平成をうつす」では当館の大切な資料も展示致しています。【主な展示資料】「孔子」「本覚坊遺文」初稿 井上靖/自筆歌軸(平成4年宮中歌会始召人和歌) 長沢美津/自筆原稿「小暗い森」 加賀乙彦。珍しいのは笙野頼子自筆校正入りゲラ「幽界森娘異聞」(泉鏡花文学賞受賞作)(知 — 石川近代文学館 (@ishikinbun) 2019年4月24日

群像5月号新連作「会いに行ってーー静流藤娘紀行」開始

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4月5日発売の 「群像」2019年5月号 に笙野頼子さんの連作小説「会いに行ってーー静流藤娘紀行」が掲載されています。24ページ。 ・第2回: 群像7月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第2回掲載 ・第3回: 群像9月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第3回掲載 ・第4回: 群像11月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第4回掲載 ・第5回: 群像12月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」完結 私小説を徹底し新境地を開いた小説家・藤枝静男について、笙野さんが「自説、私説の、私師匠説」を書かれています。 藤枝氏といえば、群像新人賞選考でデビュー作「極楽」を激推しされた方として(ファンに)お馴染み。 その師匠の経歴・人となりや交友関係を前半で描き、後半の師匠へのお手紙では作風について熱く語ります。 娘さんと共に昨年春、浜松市文芸館で近代文学の展示をご覧になったお話も。 兎にも角にも、師匠に対する尊敬と畏怖に心打たれます。心洗われます。 馬場秀和ブログに感想が掲載されています。 『会いに行って――静流藤娘紀行』(笙野頼子)(『群像』2019年5月号掲載) 以前から藤枝静男を書きたいと仰ってました。最近のエッセイにも書くと触れられてましたよね。 東條慎生さんはTwitterにも感想が。 「 藤枝静男の「文章」から、強いられた構造を脱け出ようとする技法を、語り手自身との類似点と相違点を検討しながらたどろうとする試み、か。 」 抑圧の構造を相対化し自由になるのは笙野さんの手法ですし、構造から自由になろうとする点は二人に共通していますね。 第1章「これから私の師匠説を書く」では、まずどんな小説なのか、最初に結論が書いてあります。 これは引用に基づいた小説である。私はまず畏怖とともにある引用をし、それを小説化する。 引用の内容は、瀧井孝作氏に私小説を書いてみよと言われたが、ありのままに嘘なく書くべき「自分」などないから「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う」という宣言。 笙野さんも「 私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う 」、もとい「 自説、私説の、私師匠説 」を書くという。 その師匠・藤枝静男とはどんな方なのでしょう。 そして師匠は、勝手にいうけれど、志賀直哉門下においてもっとも私

『蒼生2019』特集「あなたとして生きる」インタビュー餅井アンナの感想

『蒼生2019』の感想をメモ。裏表紙が表紙を反転させたデザイン、可愛い。 特集「あなたとして生きる」 開発ユニットAR三兄弟の川田十夢さんインタビュー。 笑うって分かるってことで、分からないものに笑わないんですよ人は。 なるほど。確かに全く理解できないものを面白いとは思えません。 笑いを取れればツカミOK的な。私のブログもそう言う風にわかりやすく書きたいものです。 早稲田大学文芸・ジャーナリズム論系出身ライター餅井アンナさんのインタビュー。 大学に入るまで挫折もなくマジョリティとして生きてきて、疎外感を感じたことがなかったというのが面白い。 ーー自分の個性や好きなものを強みとして何かを書いていると、「個性的でなければならない」という義務感に囚われてしまったりしませんか。 餅井  ありますね。今はだいぶ抜けてきたんですけど。それこそ文ジャ的な気風として、過激な方向というか、エクストリームに走らなきゃいけない空気があるじゃないですか。実際、在学中の私もそれに乗っかっていたと思うし。私が学生だった時って、SNSとかで「承認欲求」って言葉がすごく流行っていた時期で。例えば、性癖が安定していないとか、コンテンツとして消費しやすいですよね。それが当人にとってコンプレックスだったりするとなおさらその空気に乗っかってしまうというか、私も当時は必要以上に自虐していました。でも、それってやらないほうが良かったことだなって今は思うし、今目の前にやってる人がいたら「やめなよ」って言いたくなる。 わかる。自虐は止めたくなる。見てても楽しくないしね。むしろ褒めあう方が幸せ感高くて好きだな。 歳を重ねると自分の長所や短所も自然と濃くなるもので、今思えば「個性的でなければ」とある必要なかった気もします。 餅井  早稲田のハラスメント問題については、正直なところニュースを見ても全然びっくりはしませんでした。とうとうか、みたいな感じで。在学中も「あの人はああいう人だからしょうがない、うまく受け流さないとね」って自分も含めてみんな言っていた。なあなあにしてしまっていたんですよね。そんな空気が保たれていた中で、実際に進路を絶たれた人が出てきてしまって……。私個人の実感としては、「みんなうっすら共犯」じゃないですけど、一点の曇りもなく、潔白な状態で「そんなことがあったんですか、ひどい

『蒼生2019』特集「文学とハラスメント」に笙野頼子「これ?二〇一九年蒼生の解説です」掲載(3)

早稲田大学文芸・ジャーナリズム論系の学生誌『蒼生2019』の特集「文学とハラスメント」に、笙野頼子「これ?二〇一九年蒼生の解説です」が掲載です。 特集については こちらの記事を参照ください 。 この記事では、エッセイの内容を紹介していきます。 一月の下旬、K君という早稲田大学の知らない学生から、「蒼生」という雑誌のインタビューを依頼された。それは学生の創作をメインにした一年に一冊の、つまり卒業記念的な雑誌なのだが、彼ら学生はこれを、後期の実践的な授業のなかで制作するそうだ。 卒業記念的だけ違っていて、大学2年生から4年生が授業で「蒼生」を作る授業だそうです。 他は誰が出演するかと聞くと「宮崎駿」、 インタビューは「発注一月十九日仕上げ節分二月三日、ゲラ二回見る」、数日後に発注という急な話。 お断りしようとすると、本当の特集は「文学とハラスメント」だという。 「私達学生は渡部直己教授のセクハラ告発をするべきだと思いました。すると市川先生と北原先生からありとあらゆる妨害を受けました。僕は今自分もハラスメントの被害者だと感じています。この批判を終えるまでは卒業しません」 「セクハラを許せない。渡部氏だけではない。ある女性教員は 被害者に味方したり学生が嫌な目にあわないように注意喚起をし、相談に乗ってくれてもいた。市川先生はそれをいなしに行き、ほどほどにしろと牽制したんです」 依頼主は、早稲田大学の渡部セクハラ事件を特集しようとしたが、できなかった。 代わりにそのハラスメントの批判特集を作るという。その話を聞いて…。  私はさまざまな事を思い出した。――市川君、もし君がこの 特集の私の原稿をボツにしたら君は、この生涯で私に三度、言論統制をかけたことになるね?あの時、「柄谷行人」と私は書けなかった。「日本近代文学の起源」とも君は書かせなかった。 書くべきことを書かせない、ことに個人名を書かせない。この学生たちの必然的受難、それは「私が来た道」なのであった。 むろん、別に私の戦った相手は市川君だけではない。長きに渡る論争経験とその論争媒体における言論統制との戦い。私はその細い道を歩いてきて、やがてこの国が辿る大道を知った。 文壇における言論統制、それこそ戦争への道なのである。純文学における「タフなカナリア」と私は年来呼ばれてきた。 文学は自由に