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『現代小説クロニクル 1990~1994』04/11発売予定

講談社文芸文庫アンソロジー『現代小説クロニクル 1990~1994』に笙野頼子さんの小説が収録される予定です。 このアンソロジーは、「現代小説は40年間で如何に表現を切り拓いてきたのか」という視点で、1975年以降に発表された名作を5年単位で厳選する全8巻シリーズ。 第四弾の「1990~1994」は04月11日(土)発売予定。 もうAmazonで予約ページがありました。 現代小説クロニクル 1990~1994 日本文藝家協会編 収録作家さんは、多和田葉子・山田詠美・笙野頼子・石牟礼道子・中沢けい・大庭みな子・安岡章太郎・鷺沢 萠。 さすがそうそうたるメンバーですね。いったいどんな短編が選ばれるのか楽しみです。

『金毘羅』『笙野頼子三冠小説集』Kindle化

笙野頼子『 金毘羅 』『 笙野頼子三冠小説集 』の電子書籍がAmazonで配信されました。 紀伊国屋にも『 金毘羅 』『 笙野頼子三冠小説集 』が同時配信。 これでKindleもiPadもandroid端末もすべて笙野頼子さんの電子書籍を全巻読めるようになりました。すばらしい! 「三冠小説集」は野間文芸新人賞受賞作「なにもしてない」、三島由紀夫賞受賞作「二百回忌」、芥川賞受賞作「タイムスリップ・コンビナート」と文庫版あとがきを収録。1990年代の短編集です。 【追記】 電子版後書き「さらなまら、これならば、百年残ります?」が収録されていました。書かれた日付は2013年6月1日。 河出書房新社の電子書籍『硝子生命論』、『レストレス・ドリーム』、『母の発達』 『説教師カニバットと百人の危ない美女』、『説教師タコグルメと百人の「普通」の男』、 『片付けない作家と西の天狗』、『愛別外猫雑記』、 『海底八幡宮』、『人の道御三神といろはにブロガーズ』の解説と新人賞三冠王の近況が書かれています。 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』の訂正も。 「『絶叫師タコグルメ』誤植も著者校漏れも本当は直したい、しかし紙の文庫はなかなか出ないので、三箇所だけ、訂正させてください。  P170 四行目 「呟い」 を「文に混ぜようとし」に。  同ページ 七行目 行頭へ「同時に」を補う。  同ページ 同行  「が」を「も」に。  あああ、なおしたいなおしたいもっとなおしたい。他にこの電子本をオンデマンド印刷に繋げてほしいです。いろいろ残念。」no.3298 『レストレス・ドリーム』の解説文↓には共感の嵐です。 「私はひとりでいる時、女ですらない。そして私にとってはそここそがまさに女の本質なのだ。私という女は、自分に帰りたい。それはすべての社会主義にも起こった事なのでは? 人は自分を持っている。持ってないという人は誰かの自我を押しつぶしている。」no.3237 『 金毘羅 』の電子版には書き下ろしの後書き「深海族よ永遠に」が収録されているんですよ。文庫版のあとがきも。 解説は両方とも収録されていません。残念。

群像2015年3月号伊藤氏貴の『猫キャンパス荒神』書評掲載

2月6日発売 「群像」2015年3月号 に笙野頼子『 猫キャンパス荒神 』の書評が掲載されました。 「群像」公式サイト2015年3月号もくじ 〈書評〉伊藤氏貴「「私」という根(リゾーム)の神の変幻」 北千葉の一軒家に住まいする女性作家のところに居つく幾柱もの神々の戯れ。ならばうちの神さんとも顔見知りかもしれない、とふと思った。 からはじまり、天孫系の神々を中央集権というツリー状の序列の幹に例え、荒神たちを 年月を経るうちに変容に変容を重ね、分裂し、本体がなにかもわからなくなるようなリゾーム状の存在である。 とする。 本書に冠せられた「理層夢」とは、この神のありようでもあり、本書の構成でもあり、またなにより作者の考える「私」の真の姿でもある。(中略)リゾームとは根茎、ドゥルーズによれば「生成する異質性」、はじまりもおわりも中心もなく交差し、差異を生みだしつつ変化するものの謂いだが、さて日本の神々はまさしくこのような存在だった。 ちなみに本書は、(そもそも小説神変理層夢経シリーズは)ドゥルーズ=ガタリ『 千のプラトー 』を援用しており、リゾームは『千のプラトー』由来の考えです。ツリー状やアレンジメントも。 この本は、「小説神変理層夢経2」と銘打たれているように、続編であり、また笙野頼子のこれまでの他の作品と照合することではじめて見えてくるさまざまな側面をもっているのだが、そのことはここでは言わない。むしろ、これまでの作品を読んでおらずとも十分に楽しめるということが、本書にとって最重要のポイントだ。本書の構造もまたリゾームなのであり、(中略)全六章は順に笙野頼子、若宮にに様談、人の道神研究者岩倉お地蔵まとめ、沢野千本作、イザ・ナビ童女、ふたたび沢野千本作、とそれぞれ書き手が異なっている。つまりこれは、一つの流れる物語ではなく、あるいは一つの物語をその登場人物が多方面から語るということですらなく、異なる位相からの視点と異なる語り口とで織りなされるカーニヴァルなのである。 なるほど。これまでの笙野小説も単体で楽しめるものながら、他の作品とリンクしています。根っこでつながっている形といえますね。 笙野は近年ポストモダン派から評判の悪い「私」≒内面を信じてやまないが、しかしこの「私」は決して西洋近代的アイデンティティーではない。そのような不変の中心としての自己同一性