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「境界を越えて 比較文明学の現在」第12号にエッセイ

立教大学比較文明学紀要「境界を越えて 比較文明学の現在」第12号(2012年2月) 笙野頼子「変わり果てた世間でまだひとつのことを」が掲載されています。 巻頭エッセイですよ!p11~18の8ページ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40019243186 笙野さんは、2011年春から立教大大学院の比較文明学専攻で小説創作を教えられています。 http://www.rikkyo.ac.jp/hikaku-bunmei/subject_now/information/info_002.html その経緯や授業の様子がエッセイに書かれています。 教室は池袋にある繋がりから以前住まれてた雑司が谷の猫騒動から千葉への引越し・純文学論争など2000年以降の活動が総まとめ。 読むだけでおさらいできます。  いつもいつも文学に変われとせまる人々はいる。十年前にもいた。無論売上のために、規模の拡大のために、そして自分達の利益の一本化と自分達の利権の保全だけは変える気がなかった。今だって彼らこそ変わればいいのに。  被害に泣く人々を冷笑することで、「文学」を気取る者、一見少数派の不謹慎を装いながら、原因企業の悪を相対化する者、そんなお商売こそが文学にリセットを命じて来る。  「ああこれで私たち文学は無効になりました」としたり顔で言う「文学代表」も私の目にはけして文学ではない。  目の前にあるものを、今考えている事を意識し続けて止めないこと。ローンとは何か、土地所有とは何か。その上に毒が降ってくる。リセット出来ない毒。  ひとつの土俗が華厳に通じていると私は信じて、「庭の雀」を私は書いていく。「庭の雀」を。 そして創作意欲溢れる学生さんと過ごした影響かどこか前向きな文章も。  そうして、変わってしまった世間で私は何をしているのか、引き受けた仕事を実際に始める時、世間は大きな力でこうなっていた。今悪夢が皮膚に触れてくるような世の中に私はいる。彼らもいる。でもこの悪夢は昔からどこかに隠れていたものなのだ。それはいつから? 私は生きている彼らも生きている。  学生が書く。私も書く。ただひとつの事を止めてはいけないから。止めればこの悪夢を引き起こした連中の思うつぼなのだ。 元気そうでなにより嬉しい。 紀要は全国の大学図書館に置いてるらしいので、機会があればぜひ読んでみてください