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付箋を貼った意味を忘れない方法

生協の白石さんにこんな相談がきていた。最近記憶力が低下し、その分本のあちこちに付箋を貼っているのですが、その付箋を貼った意味が分かんなくなっています。生協の白石さん 10月21日の回答 質問者:OBAMAさん私もよく忘れる。
どーしたらいいんだろうと困ってたら、カチャマイブックマークでよさげな記事がブクマされていた。発想コロコロ塾【18】付箋で読書を立体的にする-日経アソシエ米光一成氏の読書では、半透明付箋で気になるトコに貼りまくるらしい。
それだと何で貼ったかわからなくなる。
そこで貼る「位置」を変えて、一目で意味がわかるようにしている。
記事ではこんなふうに貼り分けしていた。1)付箋を貼る位置を変える
・重要な場所=飛び出すように貼る
・気になる場所=深く目立たないように貼る2)貼る場所を変える
・本の下側(地)……例)初めて知った言葉や表現
・本の横側(小口)…例)ページ全体が気になった時半透明の付箋だから、文字に被ることを気にせずに自由な場所に貼れる。
だから貼る場所で意味を分けられ、カテゴリ分けができるのか。
これで貼った理由を忘れても思い出せそうだ。
さっそく試してみよう。

『海底八幡宮』書き下ろしメモ

海底八幡宮』の書き下ろし「捕獲装置とは何か、─恐怖の理不尽力、その無知の欺瞞と零の捏造」にあった「青山真治」「山田茂」のエピソード。
知らなかったので、ちょっと調べてみました。山田茂さん『群像』2007年8月号に小説「ある言語からの報告」掲載『群像』2007年9月号の創作合評で「ある言語からの報告」が取りあげられる
評者は笙野頼子・伊藤氏貴・中島たい子『文學界』2009年7月号の新人小説月評で笙野頼子は連帯を嘲笑し内面の牙城を信奉する日本近代文学至上主義者になると書く青山真治さん『群像』2007年9月号に小説「天国を待ちながら」掲載『群像』2007年10月号の創作合評で「天国を待ちながら」が取りあげられる
評者は笙野頼子・伊藤氏貴・中島たい子『すばる』2009年3月号で短編小説「元競馬場」で創作合評らしき場面を「座談会」として描くどちらも創作合評が関係している?
青山真治さんの方は『海底八幡宮』につづき『人の道御三神』で検証されるようです。次の河出から出す「人の道御三神」の書き足しに書く予定さ。実はその事を雑誌掲載時に作中で明言してるよね。『海底八幡宮』p226おぼえがなかったので見返してみると、「人の道御三神」後篇「え」映画三姉妹の項にありました。彼は大物文芸評論家笙野頼子の批判をしているのでした(ならばコメントは刊行時の書き足しで)。「文藝」2009年夏季号 「人の道御三神」後篇p240下段ここ判らなかったのです。やっとすっきり。
小説「元競馬場」では「大物文芸批評家」が座談会に登場するのです。
ちなみに主役の名前は「零児」。ゼロかっけー!一度言ってみたかったんだよね。
書き下ろしに登場したラブリー脱構築こだぬきさんは、
森見登美彦『有頂天家族』の「可愛い敵キャラ」になるといいんじゃないかな!

『海底八幡宮』の感想

笙野頼子『海底八幡宮』の感想です。
本作は、笙野頼子は権現・金毘羅だったのですシリーズ三作目。
金毘羅』で自分が金毘羅だと目覚め、 『萌神分魂譜』で自己内他者ヒコと出会う。
本作では自分の中の目上・ボスの心・王の心を発見する。今までは母に毎日のように電話していたけれど、もういない。
仕事上の「母」もなくなった。
長年つれそった伴侶・飼い猫ドーラも元気がない。
15才をむかえて夏をこせるかわからない。心配で目を離せない状態。
こんな時に限って嫌なえらい人からイタ電かかりまくるし、
訴訟するだなんだ脅してくる評論家もいる。
そんな悩みを亜知海に話す。
亜知海は宇佐八幡宮を作った王だ。
時の王権に追放されてから千五百年ずっと海底から民草を見守り続ける原始八幡の王。
真の王・王の本質そのもの。
亜知海は答える。「世の中の理不尽は税を取るための呪いであると。」
古代も現代も権力のからくりは同じ。
「歴史を繰り返すな。覚醒し越えていけ」──と、このへんまで理解しました。だいにっほん三部作で「おんたこ」(反国家と名乗りつつ、やっていることは無自覚に国家@Panzaさん)を描写した。
『海底八幡宮』はそれを「捕獲装置」と名付け、国家権力とは何か、そもそも権力とは何か、
亜知海との対話から権力の正体を描き出した。権力に本質はない。すっからかん。
オリジナルを本質をくいつくすコピーだ。
と亜知海は喝破する。そうか。空っぽだから力がないし、力がほしいから本質を奪いにくる。
奪った瞬間は力を得られるが、その瞬間からコピーになって力を失う。
だからまた別の本質を奪うことになる。エンドレス。私が知りたかったのはこれだ!
このからくりがずっと知りたかったんだと思った。

文藝 2009年冬季号

文藝 2009年冬季号「小説の書き方、読み方、愉しみ方」をチラ見したところ、
「20世紀批評・思想MAP/ガイド篇――陣野俊史」の
フェミニズムの項【代表的作家・作品】の最後に、
「松浦理英子『親指Pの修業時代』、笙野頼子の諸作品(著作だったかも)」
という記載を発見。諸作品ってどれだろ?
それにフェミニズムの代表的作家だっけ???
ちょっと無理があるんじゃないですか?
松浦理英子『親指Pの修業時代』にしても、フェミニズムの項より前項の「クィア・(忘れてしまった)・ジェンダー論」方がふさわしいと思う。笙野頼子の小説は初期から、フェミではごく一部しか理解できない。
それは著者の内面を追究した小説だからで、人の内面は歴史と現実と文化を反映する。
その反映と内面で取っ組み合った小説、と私は思っている。
女性作家で国家対抗系だからフェミってことかな?いやそれは安直すぎるか。
つか今は主役は人じゃなくて権現さまだし。
神様がフェミニズムって変な感じで違和感ありあり。