群像2015年3月号伊藤氏貴の『猫キャンパス荒神』書評掲載

2月6日発売「群像」2015年3月号に笙野頼子『猫キャンパス荒神』の書評が掲載されました。
「群像」公式サイト2015年3月号もくじ

〈書評〉伊藤氏貴「「私」という根(リゾーム)の神の変幻」
北千葉の一軒家に住まいする女性作家のところに居つく幾柱もの神々の戯れ。ならばうちの神さんとも顔見知りかもしれない、とふと思った。
からはじまり、天孫系の神々を中央集権というツリー状の序列の幹に例え、荒神たちを年月を経るうちに変容に変容を重ね、分裂し、本体がなにかもわからなくなるようなリゾーム状の存在である。とする。
本書に冠せられた「理層夢」とは、この神のありようでもあり、本書の構成でもあり、またなにより作者の考える「私」の真の姿でもある。(中略)リゾームとは根茎、ドゥルーズによれば「生成する異質性」、はじまりもおわりも中心もなく交差し、差異を生みだしつつ変化するものの謂いだが、さて日本の神々はまさしくこのような存在だった。
ちなみに本書は、(そもそも小説神変理層夢経シリーズは)ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』を援用しており、リゾームは『千のプラトー』由来の考えです。ツリー状やアレンジメントも。
この本は、「小説神変理層夢経2」と銘打たれているように、続編であり、また笙野頼子のこれまでの他の作品と照合することではじめて見えてくるさまざまな側面をもっているのだが、そのことはここでは言わない。むしろ、これまでの作品を読んでおらずとも十分に楽しめるということが、本書にとって最重要のポイントだ。本書の構造もまたリゾームなのであり、(中略)全六章は順に笙野頼子、若宮にに様談、人の道神研究者岩倉お地蔵まとめ、沢野千本作、イザ・ナビ童女、ふたたび沢野千本作、とそれぞれ書き手が異なっている。つまりこれは、一つの流れる物語ではなく、あるいは一つの物語をその登場人物が多方面から語るということですらなく、異なる位相からの視点と異なる語り口とで織りなされるカーニヴァルなのである。
なるほど。これまでの笙野小説も単体で楽しめるものながら、他の作品とリンクしています。根っこでつながっている形といえますね。
笙野は近年ポストモダン派から評判の悪い「私」≒内面を信じてやまないが、しかしこの「私」は決して西洋近代的アイデンティティーではない。そのような不変の中心としての自己同一性ではなく、リゾームのように変化し、部分であり全体でもあるような「私」である。それはたしかにあるが、どこに、どのようにとはなかなか言い当てられない。言い当てたと思った瞬間には別様のものに変化しているのである。
それは当人にとっては苦痛であろう。しかしその変幻自在なさまを読者が楽しめるように仕立てられたのが本書なのだが、こうした解説こそが一種のツリー状への誘惑であることを思えば、これ以上は語るまい。
私はもっとお聞きしたかったですねー。
まあ主人公みたいに別人に激変したら苦痛かもしれませんが、だれしも自我は年月(あるいは時間)とともに変わっているのではないでしょうか。
それをドゥルーズを援用して真正面から描いている私小説ということですね。
いやー限られた分量で本書をわかりやすく解説した書評で素晴らしいです。

今まで、笙野小説の語りの多彩さを「ポリフォニー」と分類していましたが、伊藤氏貴さん的には違うと。
「脳内他者」たちの語りは、帯にもあるように「ポリフォニー」と言えなくもないが、バフチンのこの用語はドストエフスキーには当てはまっても、笙野にはそぐわないように思える。ポリフォニーは教会音楽にこそふさわしい。ドストエフスキーの他者たちは、それぞれに違っていながらも完結した作品という全体の一部を成すが、笙野の場合は上述のように人物たちの存在の位相が異なるばかりか、彼らの語りはこの一冊の中で閉じていないからである。だからどうせ使うなら秩序に抗する「カーニヴァル」が近い。この神々が祀られるのは荘厳なミサではなく、あくまで秩序に抗した祭りにおいてである。
確かに笙野小説は祝祭感ありますよね。「二百回忌」など特に。
ただ「カーニヴァル」だと語り方を意味する言葉としてちょっと分かりにくいかなとも思ったりもします。難しいですね。

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