群像7月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第2回掲載


6月7日発売の「群像」2019年7月号に笙野頼子さんの連作小説「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第二回が掲載。18ページ。
・初回:群像5月号新連作「会いに行ってーー静流藤娘紀行」開始
・第3回:群像9月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第3回掲載
・第4回:群像11月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第4回掲載
・第5回:群像12月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」完結

私小説を徹底し新境地を開いた小説家・藤枝静男をテーマにした「論考とは違う、引用小説」第二回。
藤枝氏といえば、群像新人賞選考で笙野デビュー作「極楽」を激推しした方として(ファンに)お馴染み。
とはいえリアル藤枝静男とは違いますよ、と最初にバシッと断りが書いてあります。
 真っ暗だった自分の人生を変えてくれた彼との関わり、たった一度対面した記憶、その後今まで自作に受けた影響、彼に関する自分側の妄想空想等、等、つまり所詮は自分の私的内面に発生した彼の幻を追いかけていく小説、の第二回である。
要するにここに出てくる師匠とは、私の思考や記憶の中で捏造され、彼の残した作品、遺品、書、コレクション、エピソードの中から生まれ出た架空の人間像に過ぎないのである。
以前から師匠の小説を書くと仰られてましたが、それは荒神シリーズの後の予定だったような。
なぜ今書く事になったのでしょうか。
実は過去に藤枝静男について書かないかと依頼された事があり、その時は断ったそう。
七十過ぎてから書くと答えた。ことに、当時は、先行する評論家に恥じないものを書かなければならないと思い込んでいたから、何もできなかった。しかも老にして雄ならば、性別はともかく、せめて師匠の老が判る年齢になるまでは待とうと思ったのだ。ところが五十六歳の二月、自分がそういう平均的な老化を辿れる体ではない事を思い知らされた。
(略)
病名が付いて納得したのはこの病と一生使うしかない薬の作用で、自分が人より早く老けていくしかないということであった。ならばもう七十だと思って書いてみよう、となった。
なるほど。前々から執筆を期待されていたのですね。

天皇の退位に伴い5月から令和に元号が変わりましたが、2回目は改元と天皇の話。「志賀直哉・天皇・中野重治」をテーマにしています。
金井美恵子さんが改元エッセイに藤枝静男の文芸時評を引用されていましたが、そちらも論じつつ
つまりかつて師匠の危惧した人間天皇のあり方や天皇の発言への怒りを引用していく。
天皇の発言とは何かというと、
「藤枝静男─年譜・著作年表」のコラムで、その東京新聞の時評の冒頭が引用されています。
(青木鐵夫「藤枝静男のこと 15」藤枝文学舎ニュース第61号 2007年7月)
「これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい」。
問題視された天皇の公式記者会見はこんな感じ。
─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」
「言葉のアヤ」を「文学方面」とかごまかすとは。
なぜ藤枝氏が怒るのか、藤枝氏は文学をどう捉えているのか、説明しながら「天皇」の捕獲装置としての危険さも解説する。

(追記:天皇の公式記者会見は日本記者クラブがPDFを残してます。
日本記者クラブ記者会見 アメリカ訪問を終えて昭和天皇・香淳皇后両陛下1975年10月31日・皇居「石橋の間」
記者会見の動画もありました。8分目くらいから。
昭和天皇初めての記者会見_ニッポン・ゼロからの70年-Dailymotion

ちなみに青木鐵夫さんのコラムでは、伊藤成彦の「春秋」昭和五十一年二、三月号の分析を評価。
 伊藤は結論する。「あの『人間宣言』は<現人神>という戦前のフィクションを<人間天皇>という戦後状況に合わせたもう一つのフィクションに切り替えたものであって」「国民の側は、天皇=人間をあまりにあたりまえの現実と錯覚して、そのもう一つのフィクションの意味を問うこともなく、今日にいたったのではないか」。
なるほど。天皇=人間も、神と同じフィクションなのですね。
というものの、私には今ひとつ問題が把握できてないかも。(講義についていけてない学生みたいになってる。「心覚え」読み直そう…)

後、笙野頼子「何もしてない」の話も出てきますよ。
"改元が近づいてきたので笙野頼子「なにもしてない」を再読。…"
最後に多和田葉子さんとの赤旗での対談の様子にも触れられていましたよ。
赤旗4/29(月)に多和田葉子&笙野頼子対談記事

さっそく感想が馬場秀和ブログにアップされていますよ。
『会いに行って――静流藤娘紀行(第二回)』笙野頼子(『群像』2019年7月号掲載)
東條慎生さんも。

『会いに行って――静流藤娘紀行』『風景のない旅』『外地巡礼』『藤枝静男著作集四巻』『日本浪曼派』 『ナイトランド・クォータリーvol.17』『天安門』『ブラマタリの供物』 - Close To The Wall

このブログの人気の投稿

『蒼生2019』特集「文学とハラスメント」に笙野頼子「これ?二〇一九年蒼生の解説です」掲載(2)

更新停止のお知らせ

新刊「笙野頼子○○小説集」予約