群像9月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第3回掲載
8月7日発売の「群像」2019年9月号に笙野頼子さんの連作小説「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第3回が掲載されています。
・群像公式サイトのもくじ
読み応えのある30p、とにかく面白いから読んで。前回までは下を見てね。
・第1回:群像5月号新連作「会いに行ってーー静流藤娘紀行」開始
・第2回:群像7月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第2回掲載
・第4回:群像11月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」第4回掲載
・第5回:群像12月号笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」完結
私小説を徹底し新境地を開いた小説家・藤枝静男をテーマにした「論考とは違う、引用小説」第3回。
藤枝氏といえば、群像新人賞選考で笙野デビュー作「極楽」を激推した師匠的存在として(ファンに)お馴染みです。
前回に続いて、藤枝静男「志賀直哉・天皇・中野重治」を細かく読み解いていきます。
御三方と著者の位置を超ザッパに書くと以下。
・中野が安倍能成と天皇を批判
・志賀激怒、手紙やり取りするも決裂
・その往復書簡7通が見つかり、藤枝が論考を書く
・その論考をテーマに笙野が小説を書く(イマココ
論考に引用された往復書簡などから二人の文学と天皇に対する考え方を比較。
志賀=所有に基づく特権階級的自我の個人主義
中野=無私を目指す国家対抗的な自我
と定義し、断絶した志賀と中野の関係を藤枝にとって出来るだけ望ましいものにするために書いたのではと指摘する。
中野重治「『暗夜行路』雑談」「五勺の酒」を押さえながら、志賀と中野ともに人間天皇の捕獲装置に囚われているとした上で、師匠の天皇観と文学的自我を描いています。
馬場秀和さんが早くも概略と感想をアップされています。
笙野頼子『会いに行って――静流藤娘紀行(第三回)』(『群像』2019年9月号掲載)
東條慎生さんの感想も。お二人とも端的にまとめられていて参考になります。
「群像」今月号の笙野頼子「会いに行って――静流藤娘紀行」第三回は、藤枝静男の「志賀直哉・天皇・中野重治」をめぐって、それぞれの作家の「私」を読み込むような叙述で、中野の「『暗夜行路』雑談」が、作家にとっては不毛な評論だと批判しつつ、「五勺の酒」の不毛でない語りもしかし、
— 東條慎生のReal genuine fakes (@inthewall81) August 9, 2019
下の引用はパンフレットから共産党の党首の発言を引用する所から始まります。
(天皇について共産党の立場を表明したパンフがあるそうです。一番最後の所かな:天皇の制度と日本共産党の立場――志位委員長に聞く│日本共産党の政策)
いったい、天皇の「代替わり」、元号の変更と、憲法改定がどんな関係があるというのでしょうか。何一つ関係はありません。(中略、でインタビュアーが荻生田自民党幹事長代行の発言を紹介する)「ご譲位が終わって、新しい時代になったら、少しワイルドな憲法審査を自由民主党はすすめていかなければならない」(後略)元はオオカミ系ですよね。話は三者の天皇観から、滑らかに文学的自我へスライド。
こういう事をするために使われる「ボロボロの駝鳥」。わざと悪い環境に置かれて、誰も買わないと処分されるし、狭いところにいるから助けないと、言われるしかない、そのあり方は虐待商法の純血猫のようだ。「五勺の酒」はそこを書いているのかな?
中野は福井県選出で議員にまでなったけど共産党ならば天皇の出席する国会第一日目は欠席しているはずだ。しかし彼とてけしてけして単なる国家大綱的な自我だけでいきていたのではない。ただそれでも私的なものを理解する事が不得意だった。特権的自我、所有する自我を。
マルクスが最後まで結局反論できなかったフォイエルバッハは、人間の所有物として言葉をあげている。人は孤独であっても言語を使うとき必ず社会的存在であると。
私小説とは自己だ。特権的自我を自らの言語能力で宮中から奪還し、陋屋に祭る、オオカミ神である(うちのは猫神)。
師匠は志賀の手法を極め、さらに自我と向き合い続け「素晴らしい混交的な自我」を確立していると。
……それは書く幻想世界の中の本当の現実にして、自我の外の「私」。格好いい。師匠クール!
ひたすら拡張する自我なんか師匠は持っていない。だけれども関係性だけの自我なんかでいいはずはない。そこにあるのは小川国夫さんが師匠に関して言ったような、後期印象派的な光だけ、筆致だけ。その中に交錯する所有と関係。
私小説を書くと、気がついたらその外側に出ていることがある。
彼の自我は自分の筆致に導かれて遊び、確立される。
(中略)
そして私小説のもうひとつの原則。今書いているのは、それは、……。
必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。
もし自分が間違っていたとしても自分の文章は自分を裏切らない。
そして次回に続くよ〜。
余談ですが、後期印象派の特徴は、写実を離れた美の表現に構造や構図の美を加味した点です。
現実をモチーフにしながらリアルに描いていない。モチーフを基にした表現と構図の関係が美を作り出す。抽象画へと削ぎ落とされる前の混沌した芸術美。
確かに、師匠の表現と共通していますね。
メモ:前回に引き続き、金井美恵子『カストロの尻』「小さな女の子のいっぱいになった膀胱について」に触れられています。
それと先日公開した近況ご報告に、さらに猫写真を一枚追加しました。
近況ご報告 2019年07月21日(日) | 笙野頼子資料室
ピジョンさんのピンク肉球画像ですよ。ウェーイ!