図書新聞4/21「〈世界内戦〉下の文芸時評」第38回に北原みのり編『日本のフェミニズム』

2018年4月21日号の図書新聞第3348号の岡和田晃さんの「〈世界内戦〉下の文芸時評」第38回「ボヴァリー夫人は私だ」と言うために」で、北原みのり編『日本のフェミニズム since1886 性の闘い編』の笙野頼子インタビューが取り上げられています。
北原みのり編『日本のフェミニズム since1886 性の闘い編』(河出書房新社)は、明治時代からの廃娼運動が現代の「AV出演強要」問題にまでダイレクトに結びつき、歴史を知ることがそのまま抵抗のための礎になるところが優れている。なかでも、笙野頼子へのインタビュー『「フェミニズム」から遠くはなれて」では、「女が選挙に行くというのは、恥ずかしいこと」とされた経験を一つの例とし、日本においての冷笑とは、特別な階級のものがしてきたのではない、泣いている被害者を黙って見ている「客観」性こそが、「性」を捕獲する「暴力」なのだと指摘している。運動としてのウーマン・リブを、研究分野としての「フェミニズム」へ囲い込んでしまえば、それはもう差別という指摘は鋭い。それどころか、本連載の第三四回で問題視した柴田英里の論文についても、「女が女性差別をやっているからこれはフェミニズムと言ってくる」もの、「女性の筆で弱者は黙れ、「被害者になるな」とやっています」と本質を見抜いている。

冷笑された経験とは『日本のフェミニズム』インタビューp108の下段のところですね。
私、2000年ぐらいに選挙に行こうとしたところ、道端でおしゃべりしていた年配の女性達が「ほうら、得意になって選挙に行く」と笑った。冷笑したんです。日本において冷笑というのは、特別な階級の人がするものじゃない。誰もが女を冷笑します。それが客観・・なんです。
被害者を黙って見ている「客観」性のは、下で引用した「痴漢を黙って見ている人も、「黙って見ている罪」か作って」あたりでしょうか。
『日本のフェミニズム since1886 性の闘い編』に笙野さんのインタビュー
冷笑が「客観」になり、非難と認識されない社会の歪み。これがこと女性となるとスルーされています。

文芸時評の牟田和恵教授「科研費叩き」でバッシングされている件、よく知らなかったのですが、
研究課題「ジェンダー平等社会の実現に資する研究と運動の架橋とネットワーキング」のまとめとして、『架橋するフェミニズム―歴史・性・暴力』を「ウィメンズアクション 動画発信ナビ」で無料配布されているのですね。e-pubで。
この形式はブラウザでも読めるから有難い。
動画アップの方法を無料で親切に教えてくれてるし、このサイト、めっちゃ市民に還元してるじゃないですか。

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