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タスポの利用履歴が検察へ

全然関係ない話題だけど、タスポのニュース。 「タスポの利用履歴が検察へ」(世田谷通信) http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2009/07/post-a945.html タスポ情報、検察に提供 日本たばこ協会【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072501000753.html 協会は求められた個人の生年月日や住所、電話番号、カード発行日などのほか、たばこ購入の日時や利用した自販機の所在地を一覧表にして提供。免許証など顔写真付き身分証明書の写しが添付された申込書のコピーを渡した事例もあった。 できたばかりのタスポのカードを父が見せびらかしていたのを思い出した。 禁煙していたはずだが。 「使かわんけどなー」と嬉しそうにしてたので「使わないのに何故作る?」とは聞かなかった。 タバコ買えなくなるのがイヤだったんだろうね。 タバコを買う自由と引き替えに個人情報警察ダダモレだったと知ったらどうするんだろ。 自販機で買うなと父に言いたいトコだけど、田舎だとコンビニも遠いからなー。 ……いや使ってないはずだけど。

島尾敏雄『死の棘』

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今月の文芸誌、笙野頼子情報はないみたい。がっかり。 新潮7月号 は島尾敏雄の日記が掲載してるらしい。 先月「 死の棘 」を読んだばかり、ちょっと気になる。 「死の棘」は主人公トシオとミホの夫婦生活十年目の破綻、そして再生するまでを描く小説らしい。 まったく家庭をかえりみなかったトシオが、ミホの発病をきっかけに 夫として父として家族として、新しい世界を構築していくストーリーは見事。 現実の出来事を描きながら夫婦の家庭の精神世界を文章化している。 親密な人間がお互いの感情が影響しあって行動となる、 そういう精神的関係がリアルに小説になっていてすごい。 よむのは二度目。一度目は高校のときによんだ。 トシオの優柔不断ぶりと「こんな優柔不断のオトコはいやや」といった同級生のことを鮮明に覚えている。 今回はミホの気持ちがよくわかる。 浮気していたトシオの日記をみて、信頼を失う気持ちも、 家事をしているときに怒りにとらわれて夫を責める気持ちも、 「愛しあいたいだけなのに」と夜中にひとりごちる気持ちもわかる。 ミホの悲しみに胸が痛む。 1977年の作品なのにミホは今の女性となにも変わらない。違うのは十年我慢したところか。 赤ん坊が泣き出したら露骨に不機嫌な顔をするような、 家事育児一切やらず仕事と称して外泊しまくりの夫によく十年も我慢するよな。 そらノイローゼになるって。ならないわけがない。 と思ったら17年我慢している人がいるしー。 ・ 人を許せない悩み - 不妊・妊娠・出産・育児-女性の為の健康生活ガイド『ジネコ』 今もかわらない問題なのかも。 ミホのよき妻でありたい・トシオと愛しあいたい気持ち、それを裏切る発作的怒り。 トシオのよき夫でありたい気持ちとそれを裏切る感情。 理性と感情、抑圧と暴力、高ぶりと静けさの両極にゆれる精神に休まるときはない。 穏やかな時間さえ発作をおそれてくつろげない。 まるで戦時中のようではないですか。 トシオがミホを支配した10年、発作で逆転してミホがトシオを支配する。 でもミホは愛を求める。 ドメスティックバイオレンスな支配関係から、あらたに愛し合う平和な関係をすこしづつ築いていく。 そういう小説だったんだと今ならわかる。

阿呆ならいいってもんじゃないよ。『恋文の技術』

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わけのわからん講習から帰った家人が「幸福実現党って知ってる?」と聞いてきた。 教祖みたいな女性のポスターにそう書いてあったそうだ。 ノンポリですといわんばかりのへんな政党名だと思ったら、もうネタにされてた。 ていうか幸福実現するのが政治です 笑った。 だって「ザめしや」と同じバイバスに「幸福の科学」の支部があるんだもん、うちの近所。 新刊『 宵山万華鏡 』が出た日に読み終わるとは遅すぎる気がするのですが、 森見登美彦の『 恋文の技術 』をよみました。 手紙を書くのが得意な大学院生・守田一郎くんの書簡集です。 一応青春ラブコメみたいです。多分。 送り主が異なる毎に文体が変わっていくので飽きずに楽しく読めました。 変わっても古風で男臭くユーモラスなところは変わらず、 モリミー的純文章を堪能させてもらいました。 いやなニュースで鬱になっても、森見登美彦氏の文章をよむとクスクス笑えて 穏やかな気持ちになれます。不思議だ。 特に「おっぱい万歳」とか「ぷりぷり文句をいう」とか「ぷくぷく粽」とか、プ行フレーズがキュートで笑った。 あと「ねえ、モナミ。」は私の一番のツボ。名探偵ポアロかっつーの。 「無知無知野郎」もいいですねー、勉強がたりない人をいうらしいです。 わたしも「無知無知野郎」にならないように気をつけようっと。 追伸:アニメ「東のエデン」にでてくる平澤一臣が森見登美彦氏に似ていると思うのは私だけ?

「オニババ化する女たち」をよむ

痴漢や強姦の被害者をなんで責めるんだろう? ずっともやもやしていたが、北原みのりさんのコラムを読んで解けた。 京都教育大学の集団強姦事件 セックスが好きで、コンパで会った男の子とセックスしてもいいな、むしろそうなりたいな、という思いでコンパに行く女の子の気持ちそのものが罰せられることなんて、どういう思想だと思う。早稲田の男の子と知り合いたいな、恋愛できたらきっと楽しいだろうな、そういう思いでコンパに行く女の子を責めるって、どういう正義だと不思議に思う。 19歳の女性がセックスしたいと思うことが責められてたんだ。 女が性欲をもつことを制限されているんだ。 「キャミソールを着るから痴漢にあう」とか言う人がいるのは、そういう理屈か。 三砂ちずる『 オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す 』を読んだ。 これも割り切れない気持ちが残った。 独身の更年期女性がオニババ化すると言う話はナマハゲ的子供だましで笑えるし、 仕事ばっかりせず体を大切にしていこうとか、月経はトイレで流すとか(やってみたい)、 出産は痛く苦しいものではなく気持ちよいもので体と向き合える貴重な体験だとか、 なかなか面白いのだが、なにかもやもやする。 生殖を中心に人生を考えるp197  女は子どもを産む道具か、などと言われていましたが、もちろん女は子どもを産むための道具ではありません。女は子どもを産むための、人間です。だから人間として子供を産むと言うことをもっと大切にし、そんな大切なことを産業社会の養成で、反故にさせないことが大切だと思います。p198 道具を人間と言い換えても、意味が変わっていない。 子どもを産むために女はあると言っているのだ。 子宮があるから産むべき、といわれると心を無視された気がする。 一人一人の内面がないみたいに扱われた気分。 セックスするか生殖するか、そこから自分で選びたい。

コモドオオトカゲは毒をもつ

今日はすごいニュースを二つも知った。 ブログ・ 服従するが果たさない 経由。 つらい時は君を想い出すよ。君がつらい時は、ぼくを想い出しておくれ。 忌野清志郎さんが闘病時に小児がん幼児にエールを送ったとか。 もうひとつはブログ・ かめ? 経由。 コモドオオトカゲのなぞ解明 獲物に毒を注入 コモドオオトカゲは別名コモドドラゴンと呼ばれている、 「 人の道 御三神 」後篇にでてきた可愛いコモドドラゴン三姉妹のことですよ。 コモドオオトカゲは獲物を攻撃する際、かみついた相手の傷に毒を注入していることが、オーストラリア・メルボルン大のチームの研究で明らかになった。 がぶっと獲物に噛みつき、弱って大人しくなった頃合いに毒を注入するらしい。 チームによると、この毒には血の凝固を妨げる作用がある。獲物は多量の出血を起こし、血圧が降下して死ぬという。 大量出血で失血死!これは人間もイチコロだなと思ったら、実際に襲われて亡くなった方もいるとか。 恐竜と間違われただけあって強い。最強のトカゲだ。

清水良典『文学の未来』(2)

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清水良典『 文学の未来 』は「純文章宣言」から始まる。 それは小説・エッセイなどジャンルに関係なく、面白い文章かどうかで良い作品か決めようという主張(だと思う)。 たしかに最近ジャンル分けできない小説が多い。 私自身も文章が退屈だと飽きるタイプなので、読んでいて納得。 第一章では、作文に着目したコラムをまとめている。 作文から近代小説成立期から言文一致の歴史と功罪や日本国憲法の抑圧性を批判する展開は面白い。 そして世代間の文章に対するスタンスの指摘も。 第二章は近代小説の作家毎の批評。 谷崎潤一郎・内田百間・林芙美子・幸田文・井伏鱒二・吉行淳之介・島田敏雄。 最後の島田敏雄『死の棘』の解説は目から鱗。 作者の妻は創作のパートナーだったという視点から、『死の棘』島尾ミホは狂気の人ではなく神の相似形<聖ミホ>として書いているという。 これは…斬新じゃない?いますぐ読み返したくなった(けど本がみつからない…)。 第三章は現代小説の作家批評。 高橋源一郎・筒井康隆・川上弘美・赤坂真理・小川洋子・柳美里・笙野頼子の七人。 個人的読後感から段々と深い洞察に入っていくスタイルで読んでいなくても楽しめる。 柳美里はモデルの人権侵害として一部削除されて出版された『石を泳ぐ魚』を取りあげている。オリジナルと改訂版と比較し、オリジナルの重要なメタファーが禁じられ作品性が反対になっていることを指摘する。 その次が笙野頼子とくると、清水良典のスタンスが伝わってくるような気がするのだ。

清水良典『文学の未来』(1)

清水良典『 文学の未来 』を読みました。 ラストに「闘う文/夢みる文―笙野頼子」が収録されているからです。 例の「論座」2008年5月号笙野小特集の寄稿文が大幅加筆で16ページにボリュームアップ。 2008年時点で笙野頼子を総まとめした批評文になっております。 わかりやすい解説でにわかファン(私)には大変ありがたい。 そこには、現在に至るまでの笙野頼子の戦いの原理が刻まれている。「私」を束縛し、「ない」を規定しようとする外部の力と徹底的に争うこと、そして同時に外部の原理のさらに「外」に立ちうる「私」を想像しようと試みること、――その外と内に向いたベクトルが同時に働くような闘争として、彼女の文章は運動しつづけているのだ。p302 そうそう、笙野作品は束縛の外にたつ「私」を創っている。 笙野頼子の魅力の中で、その創造力が一番好きだ。元気になれる。  時代が最も軽んずるもの、無価値と断ずるもの、「ない」ことにされたものたちの封印された声に、笙野は「習合」する。その対象や敵が今後どのように移り変わろうとも、笙野頼子の闘いは永続する。p311 野良猫も天狗もカッパも原始八幡もナイことにされたもの達としてモチーフになっている、てことですね。 国家とか権力と闘っているとばかり考えていたが、「無価値と断ずる」もっと大きな枠の力を射程に入れているのかもしれない。奥が深いなー。