朝日新聞・赤旗・共同通信の文芸時評に「返信を、待っていた」

朝日新聞12月26日(水) 磯崎憲一郎さんの文芸時評「作家の生き様 具体性・身体性の積み上げ」に笙野頼子「返信を、待っていた」が取り上げられています。
(文芸時評)作家の生き様 具体性・身体性の積み上げ 磯崎憲一郎:朝日新聞
 笙野頼子「返信を、待っていた」(群像一月号)の中で作者は、自分より一回り年下の、会ったことは一度しかないが以降も交信は続いていた、ある女性作家の死を、亡くなって半年以上が過ぎてから知る。「人の痛みの判る、しかし自分の事は他人事のように言ってしまう、それで誤解されるかもしれないやさしい人物」であった彼女もまた、作者と同様に、ある難病と闘っていた、なのに幾度かの無神経な応答をしてしまったことを作者は今更ながらに悔いる、そしてTPP批判小説を発表しデモにも参加した、作者の造語を悪用していたネット上の女性差別に対しても抗議した、愛猫を亡くした失意の中で貰い受けた病気の猫の看病に尽くした、この一年を振り返る。「桜の花が破滅に見えるような嫌な四月」「泣くのではなくて、何か家の中が雪山のようになった」「それでも、怒りを維持する事で生命を維持している」。憤りと悔いと混乱、病気、束の間訪れる歓び、絶望と希望を人間は生きている、その人間の生活を脅かす権力と、作者は徹底して対峙する、それは政治的信条である以前に、一人の芸術家としての生き様なのだ。その揺るぎなさに胸を打たれる。
まさに絶望の中で希望を見て生きる姿が胸にきます。
その後に続く文学界一月号対談がえげつない。
「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」と題された対談(文学界一月号)で落合陽一と古市憲寿は、間もなく終わる平成の次の時代について話し合っている。視覚や聴覚に障害がある場合でもテクノロジーによってハンディが超克されるような、「差異が民主化された世界」が実現するという予見が提示された後、話題は超高齢化社会と社会保障制度の崩壊へと移る。古市は財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど」といい、落合も「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と応じた上で、「国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。今の政権は強そうだし」とまで付け加える。この想像力の欠如!
コストカットのために死んでくれと。長年保険料を納めてきた人達にこの冷遇、ありえない。
文春オンラインで対談が公開されていました。
落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #2 「テクノロジーは医療問題を解決できるか」 | 文春オンライン

しんぶん赤旗2018年12月25日(火) 岩渕剛さんの文芸時評「書くことは抗すること」には、「返信を、待っていた」と民主文学一月号のエッセイも触れられています。
笙野頼子「返信を、待っていた」(『群像』)は、早世した小説家との交流を軸にしながら、その人を大成させなかった文学状況を撃ち、そこから日本社会蔑視につながる傾向の批判へと筆を進めてゆく。
「戦争はしたくないし原発は止めたい。遺伝子組み替えでないご飯を食べたい」というシンプルな欲求さえも、この社会の中では実現が難しいものになってしまっていることへの憤りが作品の底を流れている。それでも書くことによって抗することができるという。
笙野は『民主文学』に寄せたエッセー「山よ動け女よ死ぬな千里馬よ走れ」でも、「女への侮辱と文学への侮辱それはこの国においてあまりにも似ている」と今を意味づけ、それだからこそ食べることでエネルギーを得て走り続けられる<千里の馬>としての文学的価値を押し出そうとしている。書くこと、表現し続けることで、大きな流れに抗することができるというのだ。

共同通信12月の文芸時評(阿部公彦さん)にも紹介されています。

「笙野頼子さんの「返信を、待っていた」(群像一月号)は、エッセーとも読める現在進行形。前半は難病を患い早世したある作家への哀悼が中心ですが、彼女の悔しさを引き継ぐようにして、自身難病と闘う笙野さんの「あらがい」がむくむくと形をなし壮絶です。」

2019年6月11日(火)東京新聞・中日新聞夕刊の文化欄三品信さんの「能捨の書棚」第48回で、笙野頼子「返信を、待っていた」と『ひょうすべの国』が紹介されています。

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