朝日新聞3/29文芸時評に「さあ、文学で戦争を止めよう猫キッチン荒神」

朝日新聞2017年3月29日(水)朝刊の片山杜秀(文芸時評)「自分の穴を掘る小説」で、笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」群像2017年4月号が取り上げられています。
(文芸時評)自分の穴を掘る小説:朝日新聞デジタル
村上春樹『騎士団長殺し』、又吉直樹「劇場」新潮4月号という話題作と並んでるよ。
笙野頼子の「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」はカオスである。作家は終始、自覚的に自分の穴に入り、一人称的世界を書き連ねる。その意味で私小説だが、私の設定が尋常ではない。自分が金比羅で、亡くなった愛しい猫は荒神。それが近年の笙野の世界。自分の穴といっても神だから生身の人間のような時空の限定を受けない。アナーキーである。本作はアントナン・アルトーが出口王仁三郎の『霊界物語』を書き直してでもいるかのような印象さえ受ける。シャーマンが神がかりになって過剰な言葉を吐き出し続ける。筋だったかたちになりようのない神話の断片のようなものが際限なくばらまかれてゆく。そんな笙野の自分の穴は、たとえば荒川修作のアートのような反転の奇想に満ちている。小が大を呑む。靴下を裏返すように自分の穴が外の世界をすっぽり包んでしまう。笙野の文学はそういう夢へと読み手を誘う。「自分の穴小説」の過激な極北に彼女はいる。

自分の穴に落ちるのは悪くない。むしろ小説の天命だ。高所から客観的に物事を見渡せるなら、作家より学者や評論家になればいい。小林秀雄がくりかえし述べていたろう。小説に固有な領域は私ならではの時間と空間の記憶や経験にあると。主観性の虚妄にかける。村上も又吉も笙野も自分の穴を掘っている。日本にはまだ小説がある。
「亡くなった愛しい猫は荒神」は間違いです。荒神若宮にに様は、購入した新居に住んでる神様という設定。飼い猫4匹生きてる時からお付き合いしている荒神だし、荒神だと主人公が気付いたのはドーラの介護中だし(『猫ダンジョン荒神』冒頭)。伴侶猫ドーラの霊=荒神ではありません。
群像2015年1月号の対談p126で清水良典も同じ勘違いしてて、著者が違うと否定しています。
清水 『猫ダンジョン荒神』の後書きでしたか、ドーラの霊を肩にのせて東京の街を眺める文章がありますね。(略)
笙野 ええと、実はあれはドーラではなくて作中に出てくる猫神の若宮にに様なんですね。
『猫ダンジョン荒神』で、トイレで生まれ変わった(?)主人公の前に猫姿の荒神が登場するラストシーンがあって、一瞬「ドーラ=荒神」と勘違いしそうになるけれど、読み直すと違う。猫姿になって生まれ変わった若宮にに様!という流れなのだよ。

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