「喪の途上にて」の喪の作業

おはよう、水晶――おやすみ、水晶」を読んだとき、「喪の途上にて」を思い出した。
太陽の巫女」のときもそうだった。これは喪の文学だと思った。

喪の途上にて―大事故遺族の悲哀の研究」は、突然にかけがえのない人を亡くした時の悲しみの研究だ。
事故などで急に家族を喪った悲しみを「急性悲哀」と精神医学ではいうらしい。
その悲しみを受け入れるにはいくつもの段階を経る必要があるという。

p79
第一期は、対象喪失を予期する段階。
第ニ期は、対象を失う。
第三期は、無感覚、無感動になる。
第四期は、怒りの時期であり、対象を再び探し求め、対象喪失を否認するなどの試みが交差する。
第五期は、受容の時期で、対象喪失を最終的に受容し、断念する。
第六期は、対象を自分から放棄し、
第七期で、新たな対象を発見、回復するとした。
��『地域精神衛生の理論と実際』山本和郎訳 医学書院 1968年)
 カプランの段階分けになると、あまりに図式的で紹介するのがためらわれる。しかし、いずれにせよ、人は耐えがたい体験に対し、一定の緩衝装置を持って段階的に受け止めていくものである。どれかを飛ばすことも、抑圧することも、もう一度生きていくための障害になる。

p185
しかし忘れてはならないことは、悲哀も人生に於いてなくてはならない感情であるということだ。わたしは悲哀を軽減するために、この文章を書いているわけではない。悲しみを十分に、しかし病的にならないように体験し、起こってしまった悲劇の向こうに再び次の人生をみつけださんがためである。

私は中高校時代に祖父母を亡くした時、無意識に現実と自分に透明な壁をつくった。
なくすのに十数年かかった。悲しみから逃げるとあとで苦労する。

笙野頼子さんとPanzaさんが十二分に悲しめるよう、「喪の作業」に障害が少なきよう、祈る。



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