「三田文学」表紙に「怪文書」をのせない理由を考える
「笙野頼子ばかりどっとよむ」反ネオリベ笙野頼子に「三田文学」の表紙がふたつ並んでいる。
ぼーっとみてて気づいた。
「三田文学」2008年冬季号 文学閉塞の現状――笙野頼子氏に尋ねる 田中和生
「三田文学」2008年春季号 田中和生「笙野頼子氏に尋ねる」に答える 笙野頼子
表紙だけ見たら田中和生が論争しているように見える。
笙野頼子が田中和生を批判しているってわからない。
これが「徹底検証!前号田中怪文書の謎」だったら、田中和生が誹謗中傷したって丸わかり。こりゃ載せられない、載せられない。
そこで「三田文学」の編集部はうまいこと考えた。
読者に分かりやすくなると編集部の考えたサブタイトルをつけさせて、サブタイだけを表紙に載せる作戦。
サブタイの提案にそんな作戦があるなんてさすがの笙野頼子もわかるまい。
抗議されても、ネットや編集後記の隅にでも訂正文いれればいい。そんなの誰もみてない。
著作権侵害・言論統制とかいわれても、アマチュア編集者が独断で暴走しちゃったゴメンネゴメンネっていえば済む。やったもん勝ちだ。
これで「三田文学」の名誉は守られるってわけ。
おっと間違えた、サブタイは「に答える」じゃなくて「を読んで」だった。