「群像」1月号で野間文芸賞受賞記念インタビュー

「群像」1月号にて野間文芸賞・野間文芸新人賞発表されました。
笙野頼子『未闘病記——膠原病、「混合性結合組織病」の』が第67回野間文芸賞受賞し、受賞の言葉「メイキング笙野頼子全作品」と選考委員の選評が掲載されています。一部引用しますと、
昨年、十代からの持病が希少難病と判明した。現実世界における自己像はでんぐり返った。「怠けを死守しつつも闘争する人」から「困難を抱えても止めなかった人に」!「アクロバットだねこれ」、自分を書き換える?いや「素顔」をみせてみた。受賞作はメイキング笙野頼子全作品、究極の一冊だ。それで二十三年望んでいた賞を拝受!運命の皮肉?いえこれこそ神意です!みなさんに感謝、感謝、感謝あるのみ。
いやはや受賞の言葉も謙虚です。
清水良典さんによる受賞記念著者インタビュー「メイキング・オブ・笙野頼子」も収録。
(ちなみに、今号の清水良典「デビュー小説論」5回は「地獄絵のマニフェスト――笙野頼子『極楽』」と、笙野さんのデビュー作が取り上げられています。)

さっそく馬場秀和ブログに感想がアップされています。
『野間文芸賞受賞記念インタビュー2014.11.8 メイキング・オブ・笙野頼子』(群像2015年1月号掲載)

インタビューは、『未闘病記』執筆の話や大学院お勤めの話、飼猫の話、神話と信仰の話など、読者の気になる話が満載です。
ただこれはぜひとも言っておきたいんですけど、『なにもしてない』で一種幻覚症状のように書いてあるところは、細かい日常生活を一気にデフォルメして読んでいただくための工夫です。そこは笙野ワールドであって、けっしてくそリアリズムではないという事です。(p125下段)
あくまでフィクションってことですね。笙野さんの小説はリアリティーがあって勘違いしやすいですからよけい注意です。
そして今後どういう神話(創作)を作り出すかという話の流れで、
もう一つは、母系制というか、女の人が財産を持つそして所有由来の自我と内面を持つというのはどういうことか、というのを考えて書こうと思っています。女の人間性、女の王が持つ魂、ですね。そして私は子どもも生んでないし、恋愛も何もしていないので、何をするかというと、女性が物を所有するということがどのようにして阻害あるいは回復されてきたかを書く。女が女の跡取りになっていくという状態は、現代では隠されています。しかも家父長制は一見隠されつつ強固で、すごく難儀な状態になっていると思う。ファロセントリックマザーとか大層にいうのではなく、「頭に蛇を生やした」女家長は可能かもしれないと信じ、伊勢神宮よりはシンデレラ物語の掘り起こしをぶっ飛びでやりたい。無論、だいにっほんシリーズも必ずどこかで続けます。(p128下段)
それすごく読みたいです。少子化で跡取り娘な立場である女性も多いと思いますし、今求められているテーマな気もします。
たしか新作「神変理層夢経シリーズ」全5巻の第五章は「猫シンデレラ荒神」の予定でしたよね。
神変理層夢経シリーズ(予定)
番外編「猫トイレット荒神」
第一章『猫ダンジョン荒神』
第ニ章『猫キャンパス荒神』←イマココ
第三章「猫キッチン荒神」
第四章「猫クロゼット荒神」
第五章「猫シンデレラ荒神」

さらに、だいにっほんシリーズの続編とは「いかふぇみうんざり考」のことでしょうか。諦めかけていたのですが力強いお言葉に期待が再び高まっております。
そのシリーズのスピンオフともいえる「ひょうすべ」シリーズも続きが気になっているので、こちらもよろしくお願いします。
この『未闘病記』はどっちかというとメイキング・笙野頼子全作品ですよ。メイキングだから、女優さんもお化粧しているし、ちゃんと演出しているし、サービスもしていますし。(p129下段)
なるほど。映画のエンディングにながれるメイキング映像みたいな。それ自体もED用に作られたものだったりするみたいな。
清水さんは作中の主人公のこの状態を見ていて、これは幾ら何でも疲れやす過ぎるとか、昔から思っていなかったですか?(p123上段)
思ってました。『母の発達、永遠に/猫トイレット荒神』で室内移動するのにキャスター付き椅子を使ったとか、いくらドーラ介護中としてもそこまで疲労するだろうかとずっと気になっていたのですよ。
私にとっては、欠けていたパズルのピースが埋まり、いままで空白だった絵がみえたような謎解き作品でしたね。

それと、第67回野間文芸賞選考委員(奥泉光・佐伯一麦・坂上弘・高橋源一郎・多和田葉子・津島佑子・町田康)の選評は面白かったですね。特に多和田葉子さん津島佑子さんと町田康さんの評は共感しきりでした。
もうひとつの自由 多和田葉子
「自分は笙野文学がスグレモノであることを理解し愛読できるゴクゴク少数派に属してる」とひそかに信じている人は意外に多いのではないか。わたしも油断するとそんな妄想に絡みつかれ、たとえみんなを敵にまわしてでも彼女のために一人戦うぞ、と悲壮な決意を抱いて選考会に向かったのだが、他の人たちの意見を聴いているうちに自分の的外れな思い込みに苦笑が漏れた。『未闘病記』を支持する声は様々な方向から聞こえてきた。しかもそれぞれ支持する角度が違っていて、聴いていて楽しくて勉強になった。
「病気は常にメタファーである」という認識と、「本当に病気なんだからメタファーにされてたまるか」という構えのどちらにも腰を落ち着けてしまうことなく、『未闘病記』は、言語そのものを動かし続ける。一個の身体に宿るあらゆる痛みを綿密に記録し、しかも言語の野生を殺さないで、ジャンルというコルセットで締め付けることもせずにずんずん書き続けていくと、それがいつの間にか一つの身体の記録であることを越えて、ある文明、ある時代全体を描き出そうという大きな試みになる。
笙野文学には自由がある。でもその自由は、宇宙を夢見てプラモデルを組み立てる少年の心に宿る自由ではない。いつでもどこでも誰とでも性交できる人の持つ自由でもない。家族や猫を残して一人旅に出る自由でもない。自分の身体からは逃げることができない、という自由ではないかと思う。
選考会の様子が少し伝わってきます。その自由は束縛された故の鮮烈な自由という感じです。
生きるという意味 津島佑子
病気と夢の話ほど、他人に通じにくいものはないと言われる。なぜなら、それはきわめて個人的な領域に属するものだから。したがって、病気も夢も文学作品と相性が良いように思われがちだけれど、実際に文学作品として描くには、かなり高度な技術が作者に求められハードル相当に高いんだろうな、そんなことを、この笙野頼子さんによる『未闘病記』を読んで感じさせられた。
ここで描かれているのは、ひとり暮らし(ネコはいるけれど)の女性作家がある日、原因不明のすさまじい痛みにおそわれ、それから病院での検査の結果、難病のひとつ膠原病であると判明し、しかし症状を軽くするステロイド投与によりかなり劇的に寛解するという過程である。
ところが、このようにまとめてしまうと、作品の魅力がなにもつたわらなくなってしまう。病気によって実感することになる氏の手触り。身内に自分の病気をつたえるのがためらわれる微妙な心理。そして自分というひとりの人間と病気の関係について、作者は考えを巡らしつづける。この難病はつまり「私」そのものなのであり、言うなれば「笙野病」だったとも気がつく。作者は自分の今までの作品をも振り返る。生きるという意味が、新しい様相を帯びて立ちのぼってくる。
作品が苦痛に充ちていながら軽妙なユーモアに溢れているのは、そうした人間存在についてのすぐれた哲学に裏打ちされているからなのだろう。その哲学が読後私の胸に染み入り、忘れられなくなった。
そうなんです、あらすじにすると魅力がするりとぬけてしまう。これは笙野小説全部そうなのですが。
選評 町田康
自分のなかにあることを小説に書いて、それもときどきは離れ業のようなことをしながら書いて、そうすると、その書いたことがこの世に顕れる、或いは、顕れなくても書いたことは自分のなかに残るから次に書くときはそれを織り込んで書く。そうすると、また、顕れたり残ったりするので、またそれを踏まえて書いていく。
ということは苦しく難儀なことなので大体は、それは自分の外にあってマア終わったこと、として別の主題に取り組むもよし、自然に忘却するもよし、なんて具合にお茶を濁す場合も多いように思うが、作者はそれをずっと続けてそれ自体が凄いことだと思うけれども、この作品においては、これまでに顕れたこととまったく次元の違うことができて、これまで顕れたことはそのことが深くつながっているのだけれども、今回は次元が違っているので、つなげるためには別の道具を用意しなければならない、でもそれはかなり特殊な道具なのでそこいらには売っておらず自作するしかないので自作する、みたいな普通だったら絶対にできないようなことやっていることに驚くと同時に深く共感した。
対等の神。というと、どんな神なのだろうかと思うが、心の持ちよう、とそこから発せられる文章による私が同じように小さな神なればそれは成り立つのだろう。というか、それを成り立たせていてすごいと思う。この作品は作者のこれまでとこれからの間の重要な作品となるのではないか、と思った。
本作は大変な離れ業でつくられた小説だとおっしゃっているのがよくわかります。私も本作はターニングポイントとなる作品だと思います。

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