「すばる」12月号に『海底八幡宮』の書評

すばる 2009年 12月号 [雑誌]「すばる」の表紙画はスタイリッシュだね。
その「すばる」2009年12月号の「プレイヤード」に
安藤礼二さんによる『海底八幡宮』の書評が掲載しています。
どーんと見開き2ページだ。

「すばる」2009年12月号の目次はこちら
http://subaru.shueisha.co.jp/contents/0912.html

『千のプラトー』を解説しつつ、『海底八幡宮』の亜知海を解説。
なぜ千プラがでてくるかというと、以前から笙野さんは千プラを使って小説をかくと明言しており、『海底八幡宮』はその一作目だから。
私は読んだこともないので、千プラ視点からの書評は参考になります。
書評自体がちょっと難しいけど、以下書評を引用しつつ理解してみる。

まず『千のプラトー』用語を解説。
「器官なき身体」=有機体・国家という体制に抗う戦闘機械と化した遊牧民たち
「強度の卵」=多くの差異をそのなかに包含しながら、融合状態にある多様体
そして引用。

器官なき身体は卵である。(略)人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境として抱えている。卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである。

千のプラトー 資本主義と分裂症』ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ

笙野デビュー作「極楽」の地獄絵もまた、「器官なき身体」兼「強度の卵」だと。

 一九八〇年から三十年近い歳月をかけて、ドゥルーズ=ガタリの到達した表現の地平を笙野もまた意識的かつ無意識的に受け継ぎ、それをまったく異なった次元へと展開していったのだ。グローバルな哲学表現にローカルな文学表現が接合され、特異な世界文学にして現代日本文学でもある未知なる表現言語が成立した。

安藤礼二さんも「世界文学」だって言っているよ!

その言語によって形作られなければならないのは、国家という「捕獲装置」から開放された「器官なき身体」である。「器官なき身体」が押し潰され、歪められ、その力が簒奪されたところに有機体が、国家が、すなわち「捕獲装置」が出現する。国家に抗う戦闘的な遊牧民のもつ戦闘機械であり、国家の基盤となる魔術的な王がもつ捕獲装置にも変貌してしまう「器官なき身体」をいかに組織し直していったらよいのか。

なるほど、「捕獲装置」は最初は卵だった。
だれだって最初から国家権力の代弁者じゃないということか。
亜知海の潮満珠・潮干珠の話は、「器官なき身体」から「捕獲装置」にさせられる話なのかも。
そして問いの答えは

あらゆるものに異種結合を許す習合的な自我を再発見すること、
さらには歴史をあらためて「書換え」ることにつながるであろう。
その探究の果てに未曾有の光景がひらかれる。

歴史を捏造するのではなく、書き換えること。
シャーロック・ホームズは、かわらぬ事実も見方をかえれば違う推理ができるといっていたし、
嘘をつかなくても、自分用に書き換えることはできると思う。
それが「捕獲装置」にならない方法なのかもしれない。



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