岐阜新聞4/27(土)阿部公彦の文芸時評に笙野頼子「会いに行って」

阿部公彦さんの文芸時評「あなたの生活に文学を」の4月分が共同通信より配信されました。
岐阜新聞2019年4月27日(土)に掲載、笙野頼子「会いに行ってーー静流藤娘紀行」(「群像」2019年5月号)が取り上げられていました。
「群像」(5月号)では笙野頼子さんの連作「会いに行って」の連載が始まりました。冒頭に「これから私の師匠説を書く」とのあやしい小見出し。笙野さんが勝手に師匠と仰ぐ藤枝静男は独特な作風で知られ、志賀直哉的な私小説の主流からは外れた人でした。本作も日常生活やデビュー時の記憶、病との苦闘などを柱にしつつ、自身を引き立ててくれた藤枝静男について語るうちに声がうわずり、直の”呼びかけ”が割り込むというぐしゃぐしゃした構造です。
逸脱だらけの奇妙な作品にも見えますが、制御をやぶって叫びのように発せられる声にはなかなかのインパクトがあります。
たまたま「群像」には保坂和志さんと郡司ペギオ幸夫さんの対談「芸術を憧れる哲学」も。話題になった郡司さんの「天然知能」(講談社選書メチエ)を、保坂さんは「自分のやっていることが完全な自分の能動性ではない」とわかっている人たちが描かれていると評します。文学作品の「声」も、しばしば「自分の能動性」を超えたところから出てくるのでしょう。
なるほど。藤枝静男の追求した百錬の文章、「自分の能動性」を超えた何か、それが表現されているのかもしれませんね。その見方は全く気づいていませんでした。


藤枝静男といえば、朝日新聞5月2日(木)の金井美恵子さんの寄稿に引用されていました。
「戦前と戦後に不自然に二分されている昭和天皇の「天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組」(昭和五十年)を見た小説家の藤枝静男は「文芸時評」に「実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。」と書き、それは、戦争責任について質問された昭和天皇が、そういった文学的問題はわからない、という意味のことを答えたことに対する戦争体験者であり文学者でもある者の怒りだった。」

正直、皇族(王族)の人たちを国母とか何とか思える感覚はよくわかりません。田舎百姓の孫だし。

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