岡和田晃さんの『金毘羅』批評連続ツイート

Flying to Wake IslandのThornさんこと岡和田晃さんが、笙野頼子さんから文庫『金毘羅』頂いた記念に、『金毘羅』批評回顧的連続ツイートをされています。
twitterされていない方々にもご覧いただきたいと思い、勝手ながら引用させていただきます。
★は引用した記事へのリンクです。
ちなみに、岡和田晃さんのツイートはこちらでご覧になれます

笙野頼子さまより、文庫版『金毘羅』をご恵贈いただきました。なんという光栄! 所謂「近代文学の終わり」はネオリベラリズムによる文化侵犯のシニカルな肯定にしかならず、それはフィクションにとって致命的だったわけですが、そうした状況に徹底して抗しつつ新たな領域を切り拓いた傑作です。


柄谷行人が「近代文学の終わり」を「早稲田文学」に発表した際、その極めて杜撰なシニシズムへ反論を試みたのは、なぜか笙野頼子と向井豊昭の2人だけでした。向井豊昭については「幻視社」4号に詳述しましたが、笙野頼子はポスト・サイバーパンクと文学精神を見事に集合させたと見るべきでしょう。


そのような姿勢は「アヴァン・ポップ」の実践として結実されます。笙野頼子が参加したワールドコンNippon2007の「アヴァン・ポップ」パネルに触発された拙エントリをご紹介いたしましょう。http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20071110/p1 


『金毘羅』は、笙野頼子の極私的世界の追究が、ネオリベラリズム下の日本精神の病理に対する積極的な批判たりえることをコンスタティブに証明した、おそらく同時代で日本語で書かれた中での唯一の小説作品でしょう。発売当初の状況から現在の変化を顧みると、その先見性には驚かされるばかりです。


『金毘羅』は近代批判を突き詰めた結果、日本神話の源流にまで行き着いた作品であり、八百万の神性というものが日本のねじれた「近代」においては限りなく抑圧されてきたことを明るみに出しつつ、神話的思考の復権を示した作品であり、むしろ批評的なテクストとして読まれるべきではないかと考えます。


『金毘羅』は幸運にも伊藤整文学賞を受賞した作品ですが、一方著者は発狂したのではと嘲弄された作品でもあります。ですがここで書かれていることを神秘主義への傾斜と読むのは完全な誤りで、ネオリベラリズムが捨象して済ませる「私」というものを描くためにこうした記述を採ったと見るべきでしょう。


『金毘羅』が発売された時期(正確には少し前)、私は主要な文芸誌を毎号追いかけ、それらへの批判的記述がまま含まれる(復刊前の)「早稲田文学」を読んでおり、当時の(文壇的な)時代精神を読者としてひしひしと感じてはいましたが、『金毘羅』については概して黙殺された印象が強くあります。


ネオリベラリズムを思想的な仮想敵として戦うことはできません。ハイエクやフリードマン、さらにはサッチャーらの「思想としてのネオリベラリズム」と「状況としてのネオリベラリズム」はまったく別物だからです。アヴァン・ポップとは、「状況としてのネオリベ」のについての対抗策でありました。


いま、『金毘羅』を見て私がふと連想するのは、マーガレット・アトウッドの『サバイバル―現代カナダ文学入門』です。カナダを代表する作家となったアトウッドは、同書でカナダ文学の特質を、被 -植民地下での「生き残ること」だと端的に記しました。この主題と『金毘羅』を並べれば、何かが見えてきませんか。


ネオリベ批判というのは、批評のシーンだと非常に矮小化して捉えられるきらいがあります。時代遅れの単なる反グローバリズムとか。しかしながらそんなもんじゃないんですね。「声」すら圧殺されている。文化の総体、所有していたはずの自我すらが「なかったもの」にされるというものなのです。


2000 年代の中盤、うまくすればその「声」を拾う方向に転ぶ兆しが、ないではなかった。向井豊昭が毎号のように新作を書いていたし、早稲田文学新人賞を獲った雅雲すくね「不二山頂滞在記」には、当時としては『金毘羅』の感性にシンクロを感じたものだ。何より、クロード・シモンが生きていた。


しかし雅雲すくねは2作目を発表することなく、間もなく「早稲田文学」は休刊。『金毘羅』は柄谷行人の『日本近代文学の起源』を乗り越えたはずの『金毘羅』の意義が批評的に評価されるには、その後、数年を待つ必要がありました。


この観点から特筆すべきは、トーマス・ベルンハルトの『消去』と並べて『金毘羅』をブログで評価した佐藤亜紀でしょう。この並び方は偶然ではなく、社会主義の崩壊の年に書かれた『消去』と、「近代文学の終わり」が宣言された時期に発表された『金毘羅』が並ぶことには、時代的な必然があったのです。


当時の文壇的な文脈では、文学とその「外部」というものが盛んに取り沙汰された時期でもあったように思えます。その「外部」というのは簡単に言えば純文学とライトノベルの境界解体を意味しており、それらが文壇的なラベリングにも増して目立った動向として取り沙汰されていたように思えます。


そうした状況において、笙野頼子の切り拓いた領域は迂回され、あるいは素通りされていったように思えます。文壇とは本来、語られる作品への価値判断を担保する審級として機能するはずが、その機能不全が訴えられつつも笙野の問題意識は更新材料として重要視されなかったのでしょう。

「『金毘羅』は近代批判を突き詰めた結果、日本神話の源流にまで行き着いた作品」とはまさに、非常に同感です。
現代心性を形作る近代を相対化するために、日本神話解体と創造なのであり、
その後の『海底八幡宮』では古事記以前、原始八幡信仰にいきつき、
今の新シリーズでは、さらに遡り荒神信仰をモチーフに、人の「個人の」祈りと信仰を描いているのです。

追記
ご本人のブログで、この記事を紹介くださいました。
笙野頼子さんから、文庫版『金毘羅』をご恵贈いただきました。
批評でなくオーラル・ヒストリー・ツイートで、しかも最後ぬけてたそうで。
大変もうしわけない。お詫びして訂正します。


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