「群像」2016年10月号「群像短編名作選」に笙野頼子「使い魔の日記」再録
9月7日発売の文芸誌「群像」2016年10月号は群像七十周年記念号。
創刊70周年記念「群像短編名作選」として「群像」70年の中から辻原登、三浦雅士、川村湊、中条省平、堀江敏幸の意見を参考に編集部が短篇54篇をセレクト。
その中に笙野頼子「使い魔の日記」が再録されています。
初出・底本は「群像」1997年1月号掲載のもの。(短編のみ、著者コメント等はなし)
豪華な執筆陣の短編一覧は公式サイトで公開中。
それと「群像70年の短篇名作を読む」座談会、評論「「群像」70年の轍」、「群像」で辿る〈追悼〉の文学史、名物コラム「侃侃諤諤」傑作選を収録。
9月9日から電子版も配信されています。
・Amazon Kindle版
・apple iBook版
・楽天Kobo版
座談会「群像70年の短篇名作を読む」P18上段では、川村湊さんが「使い魔の日記」に触れています。
笙野頼子の「使い魔の日記」についていえば、日本神話をおちょくっているというか、パロディー化している。それも正統的な神話ではなく、中世的、近世的、あるいは民間的な竜神とか蛇神のお使いということで、きわめて個人的な擬似神話を作り上げている。これはマルクス主義とはまったく正反対ですが、象徴天皇制の基づく国家神話なんかを飛び抜けている。メジャーな竜神とマイナー蛇神という設定など『太陽の巫女』や『レストレス・ドリーム』に通じるものがあるような。単行本『時ノアゲアシ取リ―笙野頼子窯変小説集』1999年刊に収録です。
twitterを始められたClose To The Wallの東條慎生さんが感想書かれてます。
「使い魔の日記」は神話、伝説も題材にしているけれど、ルールを破ったら殺されるとか、顔をひっくり返すだとかの不気味なイメージ、殺した罪悪感といったものが「日記」の日常的なものとして語られる、この感覚の奇妙さはまさに夢のような感触。
— 東條慎生 (@inthewall81) 2016年9月12日
馬場秀和さんの感想もきてますよ。
『使い魔の日記(「群像」2016年10月号再掲)』(笙野頼子)
群像70年の歴史を辿る評論、清水良典「「群像」70年の轍」では、4章で1990年代の歴史として「純文学」論争を紹介しています。
トピックとしては、九八年七月に笙野頼子がエッセイ「三重県人が怒る時」と創作「てんたまおや知らズどっぺるげんげる」を同時に発表し、マスコミに散見される純文学叩きへの反撃を表明し、単独で純文学論争を展開した。論争はさらに大塚英志への批判「ドン・キホーテの侃侃諤諤」(〇二年五月)と、対する大塚の反論「不良債権としての『文学』」(同年六月)の応酬から再燃した。一連の論争は笙野の創作力に火をつけ「幽界森娘異聞」(〇〇年三月〜)を経て、壮大なネオリベラリズム批判小説「だいにっほん、おんたこめいわく史」(〇六年一月〜)、「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」(同年八月)、「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」(〇七年一二月〜)の三部作をもたらすことになる。
売上文学論に対する批判をきっかけに、現在のネオリベ批判、ロリコン・ネオリベラリズム批判へ発展したのでした。
エッセイは『ドン・キホーテの「論争」』に入っており、「純文学」論争の経緯は『徹底抗戦!文士の森 実録純文学闘争十四年史』とドンキの二冊にまとめられています。
昨日の続きで70周年記念群像の清水良典の論考を読む。戦争協力出版社と見なされていた講談社にとって群像は異質な試みで、作家たちに相当警戒されていた、というのが面白い。問題社員だった編集長が、当時叩かれがちだった群像が第三の新人に積極的に書かせ、評価していたというのも。
— 東條慎生 (@inthewall81) 2016年9月13日
私もそこ面白いなと思いました。戦時中戦争協力していた講談社が戦後文芸誌を創刊する流れ自体、知らなかったな。