清水良典『デビュー小説論』

2016年2月24日発売された清水良典『デビュー小説論 新時代を創った作家たち』の第4章地獄絵のマニフェスト――笙野頼子『極楽』にて、
笙野頼子『極楽』が論じられています。
本作は「群像」で連載していた文芸評論「デビュー小説論」の書籍化で、第4章は2015年1月号に掲載された内容を加筆したものです。
デビュー作「極楽」は、初期作品として片付けられ、代表作とは異なると捉えられがちだけれども『太陽の巫女』や「カニバット」『金毘羅』に発展する主題が描かれていると解説。
作品末尾で、檜皮は周囲に奇怪なセリフを口にする。「ぼくは極楽から現世に落ちた人間です」--。
「声」が授けた「目と心」は「後世」−−つまり時間軸がずれただけの現世から来た。つまりこの「声」は、地獄と極楽という神仏的次元に接近していた檜皮を、無惨な現世に引きもどしたのだ。
この「声」に、「極楽」はいったん負けている。檜皮は「声」との戦いの敗者である。
しかし、「極楽」はむしろ惨めな現世に留まったことで、未来の足場を作った。超越的な世界に救われることなく、どこまでも生きにくい現世に留まり、現世を糾弾し続ける戦場を指し示したことが「極楽」の到達点である。
そして、ここから笙野の「声」との長い戦いが始まるのだ。p130
『皇帝』で女装して徘徊する青年を、笙野は「巫女」と書いた。巫女とは現世に行きながら神の仲介者であり、自らの体に神を宿す者である。
初めて一人称の「私」が登場する『呼ぶ植物』が発表された八九年に、年譜によれば「後の『太陽の巫女』の原型になる長編四〇〇枚を執筆するが、ボツになる。」との記述がある。この『太陽の巫女』が日の目を見るのは六年後である。
一人称「私」で描かれるこの小説は、太陽神を祀る日本で一番保守的な町「ナギミヤ」を舞台に、首都で「やおい小説」を書いている女性作家の「竜波八雲」が帰郷し、冬至の太陽神である夫と「単身婚」を果たす物語である。夫は「夢と幻視」の神でもあり、八雲はこの結婚によって生涯ヒトの男とまぐわってはならず、夢と幻視の世界に没頭する定めとなる。
結婚もせず、夢と幻視に満ちた小説を書く「私」は、ここで「太陽の巫女」としての「私」へと創造しなおされるのだ。p136
自らの生きにくさ、現世への違和感の根拠を幻視の世界で創造しなおすと同時に、この国を支配する権力と信仰のまやかしを糾弾するーー。『太陽の巫女』はそんな笙野の「カウンター神話」の第一歩だった。
「私」を幻視しアバターとして再創造する試みが、そこから無尽蔵の勢いで広がっていく。『東京妖怪浮遊』(九八)では「単身妖怪ヨソメ」として幻視される。『説教師カニバットと百人の危険な美女』(九九)では「誇り高き私小説ブス物作家」の「八百木千本、決して笙野頼子ではない、純文学作家」となり、ファクシミリから溢れでる怪文書の「声」と戦う。そののちに、記念碑的な作品『金毘羅』(〇四)が登場する。p137
作者の「分身」とそれを抑圧する「声」というキーで、デビュー作『極楽』から新作までの発展を丁寧に解説しておられます。
「江古田文学第84号」に再掲された「極楽」を読んだ時、私も『金毘羅』や最新作に通じるものがあると思ったものの、それが何がわかりませんでした。それを明確に示していただけて、スッキリしました。

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